トラウマを知って自分の中のいらない感覚を手放す必要性#37

ハワイ岩を流れる水

前回の記事からの続きになります。私の現実的な生活の中で起こった、波動を変えて巻き起こった出来事から、トラウマに気が付き、それを手放していく事で現実もさらに変化したというお話しです。どんなに手放しのワークをやっても手放せていなかった事がある。自分の傷に向き合うのはとても嫌な作業ですがそれをしないと越えられなかった事でした。今更そんな昔の事に向き合わないといけないとは。ここから私の中にあった苦悩とそれによる心の変化についてのお話です。

自分の過去を振り返り心の傷に気が付く転勤族の子供の苦悩

現実に起こってほしくない現象を通して、自分の過去を振り返えざるを得なくなった。

私の事を知る大抵の人からの印象は”いつも明るく元気な人である”。

実際に自分もそうあろうとした。

過去の自分をあらためて振り返ると、心の奥に眠っている、見て見ぬふりをして見ようとしていなかった闇がある事を認識するのである。

思い返すとその時も父の転勤に伴い、転校を繰り返す事で、当時の私は常に環境が変わる事で本来の自分を出せずに緊張を強いられるというストレスを抱えて魂が叫んでいたことを、成長と共に忘れて生きていた事。友情や恋愛や部活や勉強など、今までの環境にいたらそのまま順調にいて手放さなくてもよかったものを全て諦めた自分。

現在の現実に起こっている問題について妹にLINEで事情を説明して心のモヤモヤについて相談した。

前回の出来事についてはこちら→波動を意識して現実が変わったことで私の中に潜んでいたトラウマに気づく#36

「それはお姉ちゃんの中にある、傷付いた古い記憶について癒さないといけない事なんだよ。これまでも何度となく、嫌な状況があっても、その部分を見つめてこなかったでしょ。それを癒す必要があるんだよ。」との回答だった。

本当にその通り、どんなに状況が変わっても必ず繰り返す、私の人生の中で感じていたトラウマを癒す必要があるのだ。

確かに、幼稚園1回、中学校で1回、高校生の時には、転校を3回も繰り返し、しかも自分の意志とは無関係に、親の仕事上の都合で高校は青森、秋田、東京と3年間で3つも違う学校に通った。

中学生の頃までは自分らしくアイデンティテーを確立して成長していたが、転校を繰り返すうちに自分らしさを失わないようにしていたが、心の内を隠してしまって、表面だけは元気なふりをして長い事、生きてしまい取り戻すのに時間がかかったし、心の奥の思いまでは取り戻せていなかった。

かなりの事を我慢して来たのにも関わらず

「自分はいつも通りの私です、はい、何も辛いことはありません。元気ですよ。」的なアピールをしているつもりはないけれど、そのような何も問題ないという態度を周りの人達に気を遣わせないようにしていた。

それはまるでぬいぐるみをかぶっている状態だ。中にいる人間はかなり苦しんでいるがそれは表には現れていない状態。

この状態を小さな頃から私の事を近くで見てきた妹から、これまでもことあるごとに指摘されてきた。

彼女は小さい時に見ていた姉が、転校を繰り返した事で変わってしまったのを唯一知っている人間である。それでも自分では何の事を言われているのか気がつこうともしても気付けずに、ここまで生きてしまった。

中学1回、高校3回転校した青春時代

なぜそんな風に、心の中に自分の思いを隠してしまったのか。それは過去にそのような事になってしまった自分を思い起こす必要がある。

私の父は当時、金融機関で働いていて、嫌でも転勤がついて回る職業である。辞令が下れば嫌でも日本全国にある支店に配属される事を、よほどのことがない限り断れない。単身赴任をする家族もあるだろうが、私の両親は、なるべく家族が一緒に過ごす事を望み、家族四人でその場所で暮らす事になった。

とても温厚な父であるが故なのか、一生懸命に地方での仕事に取り組んでいたある時、事件に巻き込まれた。

父はその支店で仕事で横領事件の当事者の上司という立場になり、何も知らないまま、赴任した先の青森でその責任を負わされた。それから何年間も会社は家族の事などお構いなしに、青森→秋田→長崎→東京→金沢次々と父を何度となく転勤先へと飛ばすことで、責任を取らせた。

よく知らない部下によって引き起こされた事件のせいで、会社が下した転勤を繰り返すという、トバッチリを受けて、飛ばされまくった当事者の父にとって、周りは栄転して昇格していくような景気の良い話が持ち上がる中、自分は真逆の立場に追いやられ、家族の前では平静を装っていても、塞ぎ込んでしまうのはよくわかる。私達家族にとってはバブルとは無縁で精神的にも真逆で辛い時期だった。

それこそ、父が自分の意志とは無関係に転勤をさせられて、家族の生活の為に我慢をして会社を辞めずに、必死に耐えていたのを知っていたので、子供ながらに自分はわがままを出してはいけない、という事を無意識にしていたんだと思う。

妹はそれにより、元いた場所から小学校を5回も転校した。(彼女も同じく辛い思いをしている)

そんな状況の中、妹と二人、せめて子供の私達はなるべく普通に生活していよう。という健気な心意気である。

二人とも暗黙の了解でそんな感じに思っていた。

母は、父がそんな事に巻き込まれていたが気丈に振る舞って、当時、自営のお店をやっていた祖母と父を支えるのに必死だった。そして子供の学校の対応や、生活全般について色々な変化に伴いやってくれたのは母であるし、彼女の気丈さがなければ、家族もろとも精神的に共倒れであったであろう。それだけでもかなり大変だったから、子供達がとにかく当たり前に、人と同じように学校に通えるようにする事で必死だったんだと思う。だから子供の私達も出来るだけ普通に振る舞う事を無意識にしていた。

青森から秋田への転校の時は公立の共学から私立女子校へと転入した。中学からの延長で続けていたバスケ部に、新たな学校でも所属してみたが、出来上がってしまっているチームに溶け込めずに、仕方なく、個人的に母親達が通うようなカルチャー教室のジャズダンスクラスに放課後に一人通った。週末はその当時の友人と映画やスケートに行ったりとそれなりに楽しんでいたつもりだったが、「私の居場所はここではないんだよな」と思いながらその生活に無理やり、馴染もうと必死だった。

そして1年後の夏に父は長崎に単身赴任する事になり、やっと馴染んだはずだった秋田から、また、母と妹と私で、母の実家のある東京に移る事になった。私たちの将来を考えて、私たち3人だけ、東京に帰ることにした。

それまでのなんとか馴染もうとしていた高校生活を捨てて、また一からやり直しである。

『えぇ〜?、また転校するの?』嫌だけど、今がいいわけでもなく、流れに乗って行くしかない。

この時も、祖母の家で母と妹と私は8畳間の同じ部屋に勉強机を二つに一緒に布団を敷いて川の字になって寝る、という生活だった。思春期になってから一人部屋ではなくなる生活を余儀なくされた。

田舎の学校から東京への転入は簡単ではなく、空きがないと入れない。

学校の学力レベルをかなり落として、何とか親戚のコネで入れた学校に通わせていただいた。

その学校はマンモス校で人数がとても多く、同学年が800人近くいた。意外にも小学校の時に同じ学校だった子とかもいたり、青森の中学のクラスメートも転入したりしていて、知り合いはいたが、特に気が合うわけでなく、不毛な高校生活だった。

ただ勉強だけはして、先の見えない将来に備えてはいたが、高校生らしい楽しみは一つもなかった。その学校で成績が良くてもたかが知れていた。

クラスメートは髪を巻いたり、ルーズソックスにミニスカートで高校生がよくやるおしゃれをして、放課後を楽しんでいたようであるが

私は、どこかへ遊びにいくよりも、早く家に帰りたかった。

学校が終わると真っ直ぐに家に帰り、おやつを食べて、祖母の部屋のベッドで夕寝をすることが癒しのひと時だなんて、若さ溌剌の時代に不毛な生活である。修学旅行も行く気になれず行かなかった。船酔いが酷いという理由をつけて。

ストレスで体は太り、以前から私を知っていた子からはマウントを取られる気分に嫌気が差していた。そして何よりも無気力であった。

これも以前の元気溌剌な私を知っていたのに、変わってしまったことで馬鹿にされている気分になった。

今思うと無理して学校に行かないという選択肢があったらよかったのに、と思う。でもそのような自由な発想をする環境ではなかった。

しかも親戚はエリート意識の強い人達で、歳の近い従姉妹たちと必要以上に比較したり、本来の私ではない状態を、周りの人達は(私がどんな状況で、どんな心境に苦しんでいるのか)その事を知らずに無視して、私の表面的な状態をジャッジしてきた。

「自分の人生は自分で掴み取るしかないんだ」そんな事、大人になればできる事であるが、子供である私にはどうしようもなく、親の状況的に、彷徨って生きるしかない状態の高校生に言われても、まるで私にその能力がないことがいけないんだ、という気持ちにさせられ、人の家の状況も考えずにモノを、ズケズケと言ってくる大人の言葉にひどく傷ついた。

転校を繰り返す学生時代に、

人に自分の事を言っても伝わらない。言っても違う意味にとられて、その事でさらに傷つきたくない、という思いから、無意識で本音を隠すようになってしまった。自分の思いをうまく表現できない自分になってしまった。

(これが、現実生活でナオミから人の状況を知らずに色々と仕掛けてくることで思い起こさせられた)

私の事をよく分かりもせずに勝手な価値判断で人のことをジャッジしてくる事に傷つく。

ただ生きているだけでも辛いのに。

人それぞれ、悩みの質は違うであろうが、私の場合はそれであった。立場や状況によって見える世界は違うので、感じることも違うのに。

心の中に隠して置き去りにしてしまった感情

それでも心の声を自分でも聞いてあげられていなかった。

魂が何を望んでいるのかさえもわからずに、ただ生きていた。

心の奥を見ようとしても見つめることができなかった。

その時の自分が何を望んでいたのか?今となっても思い出されるのは、ただ、時が過ぎるのをひたすら耐えて待つしかなかった。

辛いと思っても、私だけではない、家族だって辛いんだから、こんな事でへこたれてはいけない。

必死に本当は行きたくもない学校にただ、通った。高校卒業だけを目指して。

その先の未来も思い描けずに。何も考えていないというより、思い描けないのだった。

自分はそうやって迷惑をかけないようにして何事もなかったかのようにして、我慢をして生きるしかないんだ。

無力感、無価値観という信念が自分に備わってしまった。

そうやって心に蓋をしたまま、その事を思い出したくもなく、封印したまま大人になった。

そのまま、押し出されるようにして短大に無事入学したが、自分の心の中が晴れることはなかった。

これは今、過去を思い返すとそういう事だったという心の中の事だが、表面上は普通に学生生活を送っていた。そうやって何事もないかのように振る舞うことが当たり前になってしまったのだ。

当時はイケイケ、ドンドンのバブル好景気時代。周りの事などお構いなく、楽しい事が当たり前、暗い事などあるわけない、浮かれている人が多いな中、

「鬱の人などいるわけがない、そんな事になるなんて信じられない、自分が弱いからじゃないの」的なそんな事には見向きもされない世の中だった。今のように心の病が浸透していない時代であった。

高校生活を丸ごと剥ぎ取られて、何者でもない状態でいきなり女子大生である。周りの子達が経験してきたであろう普通の高校生活を楽しめていない自分は、中身がないまま、年齢だからという理由だけで、進学するしかなかった。誰も私の内面がそんな状態であることは知らずに。

ここまで書いてきて、表面上は普通でも、心の中はかなり根暗で、隠れうつ状態の自分がいた事に気が付く。

それは社会人になってからも続いたように思う。何がしたいのか、先が見えない状況で銀行に入っても、表面的には普通にしていても、心が彷徨っている状態。

大人になるにつれ、そんな心の状態も薄れて現実を一生懸命に生きていた。

いつも表面的に状況を変えてその都度、頑張ってはいるが、何かが引っ掛かっている。

表面では何事もないフリ。

実はすごい辛いのに。

蓋をしてしまっていて、本当の心の声に気が付けないでいた。

そんな私に言ってあげたい言葉。

『本当はすごい辛いのに、何事もないかのように振る舞って我慢してたんだね。』

『実は自分が一番頑張ってたじゃん』

『もう、我慢はしないでいいんだよ。』

『そのことにワタシも気がついてあげれなくてごめんね。その気持ちを無視していた事を認めるよ。』

『あなたが今体験していることは、周りの人とは違う体験をしているだけだから、周りと比べないでもいいんだよ。誰かにわかってもらおうとしなくていいよ。ワタシが一番よくわかっているからね。』

『本当に辛いと思ったことは、隠さないでいいからね。』

まさか、アメリカで生活していてそんな事に巻き込まれて(スーパーにてナオミとの件で)初めて気がつかされることになるとは。どんなに大人になって生き方を変えて頑張っているつもりでも、根本にある傷は癒やされないまま変わっていないのだ。

そうやって大人になって、心の中に自分でも気がつかない傷を抱えていることさえ忘れて、人生を歩き出している自分がいた。ということに気が付く。

こんな事言っても仕方ないし、伝わらないと思ってしまっていた。そして自分にしかわからない事を、自分でさえもわからない事にしてしまっていた。

そういう自分が自分なんだと思い込んでいた。

実は、環境的にも、精神的にも落ち着かないまま、不安定な状態でそのまま大人にならざるを得なかった自分がいた事で閉ざしてしまっていた自分。

自分の心の奥にある思いを見つめて書いたりして表に表す事の大切さが、改めてわかった。

今までも大きな挫折を繰り返してきた。

20代で1度目の仕事を辞めた時、30代で離婚をした時、40代でお店を閉める時など、その都度気が付くタイミングがあったはずなのに、今にならないと気が付けなかった。

その時の私は辛すぎて見つめることができなかった。そして見つめる事を避けて、苦手にしてしまっていた。それでもそれをしないといつまでも同じような現実を繰り返す。だから自分の内側に置き去りにしてしまった感情を外に出手放すことで、現実が変わるという事を実感する。

学生時代に無意識に同世代の人との違いを感じて、自分には何もできないという無力感に苛まれていたのかも知れない。そしてそんな自分に罪悪感さえも抱いていた。

そんな自分の無価値観、無力感、罪悪感を手放して、その時の自分を光で包み込む。

言葉で説明すると

自分の中にある「無価値観・無力感・罪悪感」(私の場合は人と違う経験をしていると思い込んでいた高校生の時の感情)を現実で起こった嫌な出来事や人にくっ付けて、現実化させて自分が自分を攻撃する羽目に陥っていた。だからこれは、私がこれ以上、持たなくていい周波数なんだと理解して手放すことができた。

人との違いを理解できない人もいるという事、そしてそのような人から、勝手な事を言われたとしても気にする事ではないという事に気付き→そして人との比較をしていたのは、誰でもなく、自分自身が勝手にそう思い込んでジャッジしているという事にも気がついた。

そうやって自分を癒やし始めた時にやっと自分の心の中の痛み(置き去りにされてしまった感情)を認めてもらえたのを知って、胸と溝落ちあたりから込み上げるものが、涙となって溢れ出た。

現実の変化

そんな振り返りの作業を続けて、自分の傷を修復していくことで現実にも変化が起こった。

事件があった(私の中でのナオミとの事)翌週から、ナオミの態度は先週の失礼な態度とは真逆で、気楽なものへと変化していた。

私の心の中を整えたことによる変化が起こったのだ。

(前回、ナオミとの出来事はこちら→波動を意識して現実が変わったことで私の中に潜んでいたトラウマに気づく#36

彼女の姿が目に入った時、少し緊張状態だったが、『惑わされない自分でいたい』ことを自分に言い聞かせ、客観的に自分達を見ている自分が、「どんな風になるか見てるよ。」的に言っているような感じで、ことの成り行きを見守っていた。

すれ違いざまに彼女から、「今からカート作業?頑張って」みたいなノリ。先週のあのすごく嫌な態度はなんだったのか?『へい、ミナコ、ファイティン』

そしてあまり接点のない状態だったり、彼女と接する事もなくなり、彼女とすれ違った時には、フレンドリーな態度の彼女だった。

あぁ、やっと自分にも「その状態を望んでいたんだよ。それでいいよ」と許可が出せた。

そして彼女というより、自分の在り方への決意のようなものが変わった。

周りの状況に振り回されない、惑わされない自分でいるということ。

たとえ、また彼女の態度が変わろうとも、もう落ち込むことはない。自分の中にある認識を変えたからである。まさに潜在意識を変えることができた。

そのように人には言ってない、心の闇は誰にでもあるし、それによって培ってしまったものが(私の場合は、無価値観、無力感が)現実社会でいろんな現象として、邪魔をしているという事があるという事を体感しました。

アメリカに来てまで、こんな体験をするなんて思っても見なかったけど、逆に言えば、ここでなければそのような気付きに至るような、自分の心の奥にあった傷に触れることがないまま、いつも通りにやり過ごして我慢をしていたのかも知れません。今回は改めてじっくり見つめる良い機会でした。

何かしらの出来事の奥にある自分の無意識下に潜んでいたモノに気がつくという事で、現実的な問題の奥にそれがあるという事を、そしてそれを認識して手放した時に状況を解決していけるということがあるという事を、身をもって体験しました。皆さんの中にも思い当たる事がありませんか。

あなたに気がつかれたい存在、気づいてもらうのを待っている存在がいるかも知れません。

50歳になってもチャレンジングな人生を歩み続けるとは思ってもいませんでしたが、人生の流れに乗って新たな生活の場をアメリカフロリダ州 West Palm Beachに移住することになりました。その経緯や今後の生活で感じたことを綴っていきたいと思います。

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