風の時代だからこその働き方のすすめ#34

龍雲の空と椰子の木

世の中が、だいぶ変わり始め、今までのような考え方だけではなくなってきた昨今、仕事の仕方も変化した。それにこの変わり目の時代にどんな仕事をして生きていこうか。風の時代の働き方って一体どういうこと?と思うが、要は自由に自分の価値観を大切にして仕事をする働き方だと思う。それこそ自分軸で生きていないと迷ってしまう今日この頃である。そんな時代だからこそ、何歳になっても柔軟に仕事探しをすれば良いのではないか、私の経験談を元にしたお話しがもしかしたら参考になるのではないか、と思ってまとめてみました。人生で何度仕事を探したことだろう。一般的にはなるべく一つの仕事を極めてその道のプロになる事が求められているように感じられる。実際にその方が、やり続けてきた結果、その道のプロになることも出来るだろう。でもその仕事、本当にやりたいことだったらそれで良いが、本当にやりたいことを仕事にできずに、働いている人の方が世の中の大半なのではないだろうか。私もその中の一人で、だからこそ、仕事探しはその都度、その時の自分にしっくりくる物を選んできた。私の場合は不思議とこの仕事だ、と思って意気込んでも、ある程度一通りその仕事について把握してしばらく経つとなぜか、次のステージに移動する時間となる。というようなことを繰り返してきた。人から見ると、「一貫性がなく、何をしたいんであろうか、わからない人。」である。今振り返ると、「それでいいんです。」と自分に言ってあげたい。50代でまさかのアメリカのスーパーでも働くことになるとは、思ってもみなかったが、今までの柔軟な考え方があるからこそ、出来るのかもしれない。

いろんな経験をした職歴

よく履歴書は綺麗な方が良いと言われる。一般的に綺麗さっぱりした、いわゆる職種が少ない方が、そして継続して一つのことをやってきた方の方が雇う側も一目瞭然としていて雇用しやすい。

私の場合はあまりにもたくさんの会社や職種を経験しすぎて、歳を重ねるごとに全てを記入していたら間に合わないので、主要な仕事を抜粋して書かざるを得なかった。

だから履歴書を書くのが苦手だ。何年に何の仕事をしていたのか、そんなの覚えていられない。

そのくらいジェットコースターな人生だった。

大まかにかくと銀行員時代、出版社編集アシスタント時代、美容学生時代、美容系ネイル時代、派遣時代、自営業時代、専業主婦時代。

この全てが色々と前後して合わさって、一つの時代のもので何社も転々とすることもあった。もちろん次の仕事を決めるまでの間は、プー太郎時代もある。

だから、それを履歴書一枚には収めら切れないくらい沢山書かなければならない。

はい、そんなのは無理なことです。

人生がここまでくると、それでも良しと言えるようになったが、20代30代40代の真只中では、自分はどこに向かって生きているのか、本当に不安定でそれがコンプレックスでもあった。何者かにならないといけない。そんな思いで生きていた。

自分の仕事が安定しない事が、ある意味コンプレックスでもあったが、一つの会社に縛られることを嫌う自分、ある程度その仕事に慣れると、もっと他にできることがあるのではないかと思ってしまう自分がいることに後になってから気がついた。

縛られずにいろんな経験をしたかったのだ。

そんな訳で、会社という枠にとらわれずに自由に働き方を選びたかったので、正社員時代の後の人生では、派遣会社に登録して、色々な会社、職種の仕事をしてきた。その時の自分が置かれている状況や環境が常に変わってしまう自分には、その方がありがたかった。要は仕事以外に重きを置いていたのかもしれない。

今思うと、仕事以外の部分で自分らしくいられることを望んでいた。もちろん仕事場では全力投球して仕事に打ち込むのだが、私が心地よくいられるように、自分らしくいられる仕事を選ぶということを意図していく。

今の時代だからこそ、こんなことを言っても馬鹿にされることはないだろうが、地の時代ではそんなことを大きな声では言えなかった。

しかし、50代になってもチャレンジな人生を歩けるのも、そんないろんな経験があったからこそなのかもしれない。

自分にとって何が幸せなのかを基準に仕事を選ぶ

それはその時の、状況によっても変わってくる。自分が出来ることとやりたい事が合わさっている時は、その仕事がなんとしてもやりたい。だから駅近、残業なし、通勤時間も短い、福利厚生がしっかりしている、などの条件など何も考えずにその仕事に飛びつける。特に若い頃は。

でも、歳を重ねるに連れ、それだけでなく『何が自分にとって大切な絶対条件なのか。』を考えて仕事を選んできた。

本当にやりたい事であれば、時給が低くてもやってみるし、時には通勤時間や勤務日数短い方がその時の自分に必要だった時もある。

若い時は、できるだけ稼いで旅行に行くことを優先したり、美容の勉強をしていたときは、時間の融通のきく仕事など、フレキシブルに仕事を選んできた。

その分、将来的な安定などの補償は一つもない。そんなものはその時になってみないとわからないものだ。そんな事を気にして生きていては人生つまらないものに固執してしまう。

まずは、人の価値基準に合わせずあくまでも自分の基準で選ぶこと。

私が最初の就職をした時、自分のやりたい仕事の職種とはほど遠い、とある大手金融機関の仕事に親のコネで入社した。

当時は、バブルで時の流れに押し出されるように当たり前に、就職口がたくさんあって、卒業後は就職するのが当たり前で、私の周りでもみんな一流企業に就職するのも当たり前、年の近い従姉妹達もみんな錚々たる大企業に就職していた時代である。

でも一体何がしたいのかよくわかっていなかった。

若かった私は、就職すること自体に違和感を覚えながらも、とりあえず就職するしか選択肢がなく、周りの風潮に合わせて当たり前に就職活動をしていたが、入りたいな、と思っていた会社には入れず、結局その金融機関に雇って頂いた。

世間的には、安定して収入も良い。ずっとそこにいれば将来も安泰。高学歴の人材が働いているので将来的に良い人に巡り合えそう。

その当時はそんな声が聞こえてきそうな職場だったが、ある意味、自分の意志とは無関係に訳も分からず就職したら、ある朝、1時間半の通勤途中で息苦しくなり、最終的にはその駅の地下鉄の階段さえも登ることが出来ないくらいのストレスで、その会社を4年半で退社した。

大企業であればあるほど、その仕事の内容は歯車の一つでしかないと思わされる。

何で自分はこの会社で働いているの?

自分の存在意義って何?

みたいな疑問が渦巻き、最終的にはやめる決断をした時に一番、自分の心が解放されるのを感じた。

実は自分ではなく、親の期待に応えていた自分がいた。その事にさえ気が付かずに、自分の居場所だと勘違いして働いていたが、そんなのは長く続くはずもない。

仕事を探すときにはその会社のあった大手町には、一歩も近づきたくないというくらいに心が疲弊していた。

それ以来、仕事を選ぶときはたとえ給料が少し低くても。自分がやれること、好きなこと、気持ちが動くことにフォーカスして選ぶ。

心地よい自分らしくいられる環境を選ぶ。それは仕事を続けていく時のモチベーションになる。

そうしていくうちに、約15年後にはまた大手町にある仕事場でも働ける自分に変化していた。

アメリカに移住する前の日本での仕事探しでは、46歳、自営の廃業後で、身も心もボロボロ。今から雇ってくれる会社なんかあるのかという不安を抱えながらの職探しだった。しかも自営業の時の借金の返済をするためにだ。最終的に仕事をした会社は、自宅から通勤電車で5分、職場環境もほどほどに良さそう、そして残業が必要以上に多くないもの。これが自分がストレスなく働けた。

この時のモチベーションは「雇ってくれるだけ、ありがたい、どんな仕事でも一生懸命に頑張ろう。」

とにかく毎月、決まった額の借金を返済しなければならない事が先決で、それが念頭にあったからだ。今まで気にしていたような、職場での小さないざこざは大して気にならなくなった。

そこでも、期間延長を繰り返し、最終的にアメリカ行きと家の引っ越しが重なりやめ時となった。

世間の声を気にしない

私は30代で離婚した時、さてこれから何をして生きていこうと考えあぐねていた。そんな時、アメリカに留学中の妹からこんな事を言われた。

彼女はアメリカのビューティーライセンスを取るべく、コミュニティカレッジで美容を勉強中だった。

「まだ若い今なら、いろんな事ができるはず、今までやった事がないことにチャレンジしてみたら?アメリカの美容学校の先生で60歳の素敵な女性の先生がいるんだけど、彼女は40代から美容の勉強を始めて、今先生として活躍してるんだよ。今からでも遅くない、今がお姉ちゃんの人生で一番若い時だよ。」と。

お先真っ暗としか思えなかった私には、目から鱗の発言。

「お姉ちゃんはネイルを勉強しなよ。私と一緒にお店をやろう。」と提案してくれたのです。

離婚をして将来の見通しがよく分からないまま、何だか面白そうかもしれないという気持ちになり、これからの人生をかけるつもりで、34歳でネイルの学校に通いました。妹がいたのでアメリカのヘアショーに個人的に参加したりしてとても刺激的でした。

そして妹が帰国してから通信で美容学校に3年半通い、38歳でやっとの思いで念願であった美容師免許も取得しました。

それでも「38歳で美容師免許を取ってどうするの?」

「今から美容をやるなんて遅いよ」

「私はそんな今更、負を背負いたくないな」等と色々な嫌味を当時の友達や美容院での面接で言われたりした。

今の自分からすると全然、若かったですが、卒業式の日に、年の15歳以上も離れたクラスメート達に混じって卒業生として参加しているのに「保護者の方ですか」と間違われたこともある。

年齢的な勝手な判断で人はいろんな事を言ってきます。

それでも諦めななかったのは、妹とお店をやるという夢があったからでした。何としても免許を取る。

ネイルと美容学校を卒業して晴れて美容師の国家資格である美容師免許も取得したので、42歳で念願のカフェ&サロンのお店も開業しました。(もちろん、簡単にお店を開業できたわけではありませんが)そのときは人生をかけてそれを目標に生きていました。

人生の集大成がそこにあると信じて始めたお店でした。アメリカ人の夫も巻き込んで。

でも、その夢のお店も自分達に取っては最高のお店を作ったつもりでしたが、経営の方でうまくいかずに泣く泣く、最終的に断念せざるを得ませんでした。

開業と経営と廃業について学んだ、辛く厳しい経験でした。

あんなに、「これが私の生きる道」として臨んだ美容の世界だったのに、あっけなく幕を閉じざるを得ませんでした。神様は無情だ。そんな事を思ったのでした。

『これ以上、何をやればいいのだろう。もうやり尽くしたよ。』

どうやらまだまだ私に取ってのこれで安泰と思える道は遠いようでした。

自分の枠を外す

数年に渡って情熱を注いできたものを諦めて、また一からのやり直しです。借金だけが残りました。

46歳になっていた私は、とにかく働かないといけないけど、またもや就職難民です。気力もありません。ストレスで体は太り、肌もボロボロで化粧ができないほどです。

お店を辞めるときに店舗屋から詐欺にあったので訴訟裁判もしました。訴訟を抱えながらの就職探し、裁判資料を読み込み、自分達の主張が通るように資料に書き込みをしたりで徹夜が続いたり、弁護士事務所に出向く日々、本当にあの時はとても辛かったです。妹と夫で借金返済を念頭においての職探しです。

妹は語学学校に、夫も前職の英語教師の仕事で、それぞれ職に就くことが出来ました。

私も何かやらないと。

いくつかの仕事に応募はしてみたが、年齢などを理由になかなか仕事が決まらず、落ち込んでいました。

そんな時に、前職で働いていた派遣会社の知り合いから仕事の紹介をされ、家から近かったのがラッキーと思えた事です。

その時の私は、とても疲れ果てていたので、家から近いことがだけでもストレスなく働ける、

もう何でもいいから働かせていただくならありがたい、そんな気持ちで臨んだ面接では

「何でもできる人、やってくれる人を望んでいます。」と言われ、

『それって私の事だ。』と心の中で思いました。

そして「ほかに何人かの面接があるので結果は後日にお伝えします。」

翌日、先方から「来週から来てくさい。」

今までは、職歴が多いことが私が弱点だと思っていた職種の多さが、逆に先方からは何でもできる人として映ったようだ。

自分の弱点だと思い込んでいたことが、強みに変わった瞬間だった。

そこでの私の仕事は、国家プロジェクトの仕事でその経費を取りまとめたり、労務管理記録を作り、年に数回行われる専門家を集めた委員会の準備をしたり、国家検査に対応すること。前例のない仕事だったので、全てを自分なりにまとめたりしながらの面倒な事も私がやらないと終わらないというプレッシャーを抱えながら一人完結の仕事である一方、いろんな部署の人や外部の方と関わり、とても自分らしく仕事ができた。

今まで生きてきたプロセスが全て役立った。そんな気持ちにさせてくれました。

そのときはとにかく、誠実に一生懸命仕事に取り組んだことで、その仕事ぶりを認められたのか、さらに期間延長をしてくださり、上司にも恵まれ、アメリカ移住をするからと仕事をやめる間際まで、他の職種に変更してまでその会社にはお世話になり結局4年間お世話になり感謝しています。

まとめ

この私らしく仕事ができるようになるまで、何年もかけて、しかも色々な経験をしながら、やっとこの境地で仕事ができる自分になれました。

一つの仕事にこだわらずに、いろんな職種にチャレンジしてみることで、新たな発見になる。

その職場ごとにフレキシブルに対応することや、いろんな人々との関わりの中で学んだことなどがいろんな場面で役立ち、経験が積み重なり、折り重なった時にいろんな職種で得た知識や対応力を兼ね備えたパワーアップした自分になり、それが新たな自信につながる。

私の場合、『経験こそがお金を払っても得られないもの。』それが私にとっての財産になり、

自分らしさを活かして仕事ができる事により、職場が楽しいと思えるようにもなりました。

今は、アメリカでいろんな人種の方達と、言葉の壁を越えて私らしく仕事をしている自分がいる。

なぜか、言葉や人種、年齢の壁を越えて、当たり前に私という存在を受け入れてくれ、毎日お客様や同僚から感謝の言葉やハグをもらいながら仕事ができている。

これからの時代はそんなに時間をかけないでも、自分らしくいられる事、そしてその事に対して、心地よさを感じられるのであれば、何でもやってみてほしい。

それが実現可能な時代であるくらい、世の中も変わった。

私も、今はこれが私の仕事であるが今後はまた何をするかはわからない。また新たな波が来たら変わるだろう。そんな風に軽やかに乗りながらやっていくと思う。

だからあなたも『自分にあった心地よさを選んで、自分らしく生きやすい仕事を選ぶ』と意図してみてほしい。

年齢やいろんなことは気にせずに

『今、その時があなたに与えられたチャンスの時』と捉えてチャレンジしてみてはどうだろう。

50歳になってもチャレンジングな人生を歩み続けるとは思ってもいませんでしたが、人生の流れに乗って新たな生活の場をアメリカフロリダ州 West Palm Beachに移住することになりました。その経緯や今後の生活で感じたことを綴っていきたいと思います。

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